フルトヴェングラーの
アッチェレランド
速いテンポは聴く人の興奮を高め、ゆっくりとしたテンポは重苦しさなどを醸し出す、広く世に知れ渡った事実です。
大抵の場合、作曲者が楽譜に交通標識のごとく、最初のスピードはどのくらいで、どの小節からテンポを一段上げて、どこから遅くし始めて、というように記してくれますので、それに従ってさえいれば万事オーケー、それ以上のことをするべきではない・・・、と考えられているのだとしたら、こんなに残念なことはありません。
写真:ベルリン自宅の窓から・夏
フルトヴェングラーは、テンポ設定が大変上手な指揮者でした。この巨匠の演奏に感服し、それを取り入れるという試みが、数多く行われてきました。即興でテンポを揺らしてみたり、大切な和音を演奏する前にタメてみたり、重要な部分のみ引き伸ばしてみたり。演奏を聞くと確かにそのような第一印象を受けるかもしれませんけど、よく聴くとフルトヴェングラーは決してそんなことをしていません。安っぽくなるばかりで、そこそこ変化がついたこと以外、得るものはなにも無かったのではないでしょうか。
フルトヴェングラーのテンポの変化とは、そのような気まぐれではなく、綿密に計算され尽くされたものでした。彼の演奏を聴けばすぐに、速い部分は誰より速く、遅い部分は誰より遅いのに気がつかれるでしょう。それを踏まえ、速い遅いだけではなく、「だんだん速くなるテンポ」と「だんだん遅くなるテンポ」をものの見事に使いこなし、作曲家が想定していたより遥かに高い芸術に仕上げたのです。
1つの作品全体を見渡した上で、今演奏している部分がどのような意味を持っていて、どの程度の興奮の度合いであるべきかを、的確に判断できる指揮者でした。それを踏まえて、興奮に向かって何十小節にも渡って少しづつテンポを上げていきます。この場合、8小節単位のような小さいフレーズをゆっくり始め加速していきリタルダンドして収める、といったことは最小限におさえ、長いスパンに渡り持続する加速減速を優先すべきでしょう。
柔軟性があるゆっくり目のテンポで始め、わからないように少しづつ少しづつアッチェレランド、演奏に物語性と生命をもたらすこの効果は、実に絶大です。
その際に、どこかで階段を一段上がったように急に速くなると、途端に白けます。聴いている人の心というものは。そう急についていけるものではありません。興奮を高める際に、時間をかけなければ。テンポをより速く出来る伸びしろには限りがありすから、伸びしろを無駄にすることなく、その中で最大限の高揚を得るために、人の心がついてこれるようなギリギリの加速を持続するといいでしょう。
写真:ベルリン・ティアガルテン
自分が演奏しているテンポを熟考し完璧に把握してこそ可能になる手法です。
作品の冒頭、ピウ・モッソ、またはリタルダンドした後のア・テンポで、指定されたテンポに初めから達していなくてはならない、という人がいますけどそういう人に限って、ヨーイドンと開始した5小節後にテンポを見失い遅くなったります。
「アレグロを全く同じテンポで演奏し続けると、あたかもだんだん遅くなるかのように人間の耳は錯覚するものだ。わからないように少しづつ加速してこそ、同じテンポに感じる。」という先達の薀蓄も、そのような深い意味においてとても示唆に富んでいます。