フルトヴェングラーの
リタルダンド
時間をかけて丁寧に均等にリタルダンドすれば、ふかふかのベットでおやすみなさいと言いながら眠りにつく安らぎ、息がしづらくなるほどの重苦しさ、などを表現できます。
写真:ベルリン・地下鉄最新車両
乗り物を運転する際に滑らかなブレーキをかけることが高度な技術を要するように、リタルダンドはアッチェレランドよりも遥かに難しいです。充分前からしっかり準備していないと、リタルダンドしたつもりだった地点よりかなり遅れてかかっていたりします。かといって急激に遅くし過ぎると、その後で更に遅くなるべき伸びしろがなくなってしまい、単なるメノ・モッソのようになってしまうでしょう。
また、折角リタルダンドしたのに途中で音形が変わると安易に速いテンポに復活してリタルダンドし直す、非常に悪い慣習が存在します。遅くなり速くなりまた遅くなりというように何回も繰り返すことになり、その先のテンポ自体もそう遅くはなりませんので、全く落ち着きがないだけのリタルダンドにならざるをえません。
フルトヴェングラーは、前章で触れたアッチェレランド同様に、静寂に向かって何十小節にも渡って少しづつテンポを下げていくリタルダンドを、大変上手に使う指揮者でした。彼の演奏により魔術にかけられたと感じる人が多いのは、この「だんだん遅くなるテンポ」によるところが大きいでしょう。
写真:マイニンゲン宮廷劇場・ホワイエ
当然のことながら、なぜ遅くなっていくのか、音楽的な意味に裏付けされていなければなりません。フルトヴェングラーの演奏には、遅くならざるを得ない説得力が満ち満ちています。遅くなった分だけ音楽的内容が薄まってしまうのではないか、と遅いテンポを怖がる方は、是非フルトヴェングラーを聴いてみてください。
ブラームスの交響曲第4番の第1楽章にその例を見てみましょう。ここでは219小節から958小節まで39小節に渡り、楽譜に書かれていない長大なリタルダンドをかけています。ほぼ均等にゆっくりなっていく過程で特筆すべきは、223小節、227小節、247小節、252小節などでうっかり元気を取り戻してしまうことなく、均等なリタルダンドにより、止まる寸前のテンポに支配されたとてつもない音楽の奥底まで連れて行かれることです。
続く再現部も、途端に最大限目覚めるのではなく、少しゆっくりめから開始します。
テンポは、決められた速度をずっとキープするようなものではなく、速くなったり遅くなったりする可能性を常に秘めた柔軟性を伴うべきです。そして、それは魔術でも何もなく、演奏を何ランクも押し上げてくれる「技術」なのです。最強兵器と言えましょう。