芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
恩師松村禎三先生の思い出
皆さんが音大に入って接することになる教師の中には、それまで出会ったことのない個性が強く刺激的な方々がおられるかもしれません。私も藝大に入学して、様々な教師に出会いましたが、中でも3年次から作曲のレッスンを担当してくださった松村禎三先生は強烈な個性の持ち主、今に至っても多大な影響を感じております。
大学受験までに和声学や対位法をマスターし、フーガや室内楽の自由作品の習作を重ね、そして将来自分が書くことになるだろう作品の参考にと、諸先輩の作品発表会にも頻繁に足を運びました。現代音楽の無機的な作風にはあまり共感できず、自己の音楽語法を獲得するため暗中模索の日々が続きました。その頃出会って印象の深かった二曲は、偶々買ったLP収録の武満徹作曲《弦楽のためのレクイエム》、それにサントリー音楽賞受賞記念コンサートで聴いた松村禎三作曲《ピアノコンツェルト第二番》でした。後者の作曲者松村先生から作曲のレッスンを受けたのです。
松村先生は京都の三高(旧制高校)の物理を卒業、上京して清瀬保二氏に作曲の個人レッスンを受けていましたが、そのころ不治の病だった結核に罹り、清瀬の療養院で5年間闘病。当時最先端の片肺除去の手術を受け、生死の境をさまよいながら書いた《序奏と協奏的アレグロ》が毎日コンクールで優勝し劇的な楽団デビューを果たしました。藝大の教官になられるまでは映画音楽で生計を立て、教師というよりは芸術至上主義作家。鋭い勘と厳しい批評精神で、当時の藝大作曲科学生に絶大な影響力を持つ存在でした。
最初のレッスンで(大抵は3,4人のグループレッスン)、我々学生に「若い時に一流の芸術に触れるように」とアドヴァイス下さったのが松村先生です。その時私は、一年時の提出作品《ヴァイオリンとピアノのための断章》の録音を聴いて頂きました。松村先生は開口一番「君にはデモーニッシュというものがある。それを大事にしなさい」と仰いました。しかし曲の後半の、ヴァイオリンのトレモロの上行形のグリッサンドによるオスティナート(同じ音型をひたすら連発する作曲技法で、当時松村先生の得意とする音楽語法)に対しては「ここは後家の頑張りのようで良くない」と指摘されました。はあ?《後家の頑張り》ということわざを初めて耳にして、ポカンとしている私の顔をご覧になって、ニヤニヤされていた松村先生のお顔が今でも目に浮かびます。
今や絶滅危惧種となりつつある芸術至上主義作曲家、松村先生の大変印象に残るお言葉を、これから次回にわたりいくつか紹介します。
①ライバルはルードヴィッヒだと思え
私の大学2年時の提出作品《弦楽四重奏のための前奏曲》は、幸運なことに日本音楽コンクールの本選会で演奏されました。演奏時間5分15秒、おそらく同コンクール史上演奏時間最短の予選通過曲は、見事に入賞を逃しました。本選会の翌日がレッスンでした。審査員の一人だった松村先生は傷心の私に嫌味たっぷりに「ビリッケツでどう思った?」とおたずねになりました。師である松村先生には、常に本音で話す事にしておりましたので、私は憤慨して不遜にも「私の曲が一番良いと思いました」と答えました。松村先生は、にわかに烈火のごとくお怒りになりました。「私は君の曲を、優勝した✖✖の曲と比較して最下位を付けたのではない。公の場で自分の曲が演奏されたとき、バッハやベートーヴェンの作品と比べて、自作が如何に未熟であるかを悟りなさい。」これには何も反論できず、自分の傲慢さと未熟さを認めざるを得ませんでした。
常にバッハやベートーヴェンと比較するという松村先生の姿勢は、先生の師である池内友次郎先生のお言葉だそうです。松村先生はご自分の作品に対して、常にそのような厳しい態度で臨まれていらっしゃいました。代表作《管弦楽のための前奏曲》の初演が大成功に終わった後、オーケストラがアンコールにバッハの《G線上のアリア》を演奏した途端、初演の大成功は一気にかき消されてしまったと謙虚に仰られていました。
先生が《チェロ協奏曲》を苦心して作曲されている54歳の頃「自分はルードヴィッヒが第9交響曲を書いたのと同じ歳になったのに、こんなに努力してもろくな曲が書けない。自分とルードヴィッヒとの違いは、結婚している事、藝大の教師をしている事だ」と奥様に仰り、朝から壮絶な夫婦喧嘩をされたそうです。(次回に続く)