芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
恩師松村禎三先生の思い出 そのⅢ
今回も前回、前々回に引き続き芸術至上主義作曲家、恩師松村先生の印象に残る言葉を紹介します。
③作曲家の生活をしなさい
日本音楽コンクール入選の後、松村先生のレッスンに、私は三年次提出作品として作曲した歌曲を持参しました。それは漱石の俳句「ある程の菊投げ入れよ棺の中」を終曲として、七つの漱石俳句で一曲を構成するというコンセプトの歌曲でした。
「ある程の~」の句は、当時受講していた「現代美術」の講義中、若桑みどり先生が言及されたものです。若桑先生はNHKの「日曜美術館」にも出演されていました。大学の講義では膨大な知識量と集中力、弾丸のような言葉の連射がとても刺激的でした。(若桑先生も大学で出会った忘れられない先生の一人です。)
松村先生は拙作《漱石の俳句による七つの歌》を大変評価して下さり、学生であるにもかかわらず日本現代音楽協会「春の現音展」第七夜のプロデューサー貴島清彦先生に推薦して下さいました(初演 Sop.村上曜子 Pf.中川俊朗)。松村先生は俳人でもありました(俳号・旱夫。フィデリオのもじり)。私に橋本多佳子の句「凍蝶に指ふるるまでちかづきぬ」を紹介して下さり、多佳子のような鋭い感性を備えた作曲家になれと諭されました。
このように、良いと思われたら学生の作品でも、ためらわずに世に出してくださる松村先生の自由な考え方には大変感謝しております。しかし私は、不遜にも作曲による表現に満足できず、当時最先端の「前衛舞踏」にのめりこんでいきました。今振り返ると、作曲技術の未熟さ故、若いエネルギーを充分作曲に昇華出来なかったためだったのですが。
松村先生は若い頃上京し、池内友次郎先生に作曲理論を学んでいました。貧困と持病に苦しんでおられた先生は、解決手段として奨学金を得るため藝大を受験されました。和声学は他の誰よりも良く出来たのに、何と一次試験の和声に落第されました。直後、驚いた池内先生から「作曲家の生活をしなさい」と忠告を受けました。 実は先生はその頃、俳句に没頭していました。松村先生は私に「今の君にも、あの時僕が受けた忠告をそのまま与えたい」と仰いました。
大学のレッスンが終わって、上野駅までの道すがら、先生は私に藝大の教師を辞めたいと漏らされました。実は学部長時代、辞表を提出したところ、驚かれた奥様がすぐに推薦者のI先生に相談されて、辞表を取り下げたという経緯があったそうです。誰もが憧れる芸大教授を、松村先生が辞めたいと考えておられた事に驚きました。先生は「作曲家の生活をしなさい」という池内友次郎先生の教えを、大切にされていたのだと思います。最終的に先生はついに藝大の教授を辞され、13年を費やしたオペラ《沈黙》を完成に導かれました。
私は大学卒業後、試行錯誤を重ね、40歳になってようやく自分自身が納得できるオーケストラ作品《ルバイヤート交響曲》を作曲しました。東フィル初演の後、録音とスコアを持って久々に松村先生のお宅に伺いました。
曲を聴いた直後、先生は開口一番「これだけ思う存分オーケストラを鳴らせて、嬉しかったろう」、そして「冒頭の部分は、僕の作風に似すぎている。初めて僕の曲を勉強したな」と仰いました。(笑)
その時、東京コンサーツのマネージャーから仕事の電話が入って来て、松村先生は「今、作曲家の二宮玲子さんが来ているところで」と話してられました。40歳にして、松村先生から初めて〈作曲家〉として認られたのです(笑)。
松村先生にご挨拶をして帰ろうと書斎の扉を開けると、そこには光に溢れた仕事部屋のピアノの前で嬉しそうに作曲されている先生の姿がありました。