芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
レ・ミゼラブルー私の学生時代&就活
さて、恩師松村禎三先生の神々しいお言葉の次は、かなり現実的な私自身の就活について書きます。そもそも私の在学した頃は音大には就活なんて言葉はなかった。ましてや芸大は基本的に芸術の道を極めるために必死な者の集団とみなされ、大学卒業後の就職と言えば、せいぜい中高の教員になるくらいしか選択肢がありませんでした。音大卒の女性に限れば結婚して主婦になり家庭でピアノ教師をやるという生き方が主流だったように思います。
先日のショパンコンクールで二位になった反田さん程の人が、若くしてソリスト育成ビジネスを構想しておられるのには、時代の変化を感じます。《題名のない音楽会》の司会で有名な作曲家の黛敏郎先生は日本郵船の社長の御曹司にもかかわらず、当時のインタビューで、現在の関心事は、と問われて「生活する事」と即答されておられたのが強く印象に残っています。
私は教養の必要単位の3分の2を大学一年修了時点で取ってしまい、残りは3年間かけてゆったり取得しつつ作曲に集中しました。しかし週5日間、北鎌倉から上野まで早朝から満員電車の長時間通学に疲れ切ってしまい、一年次の途中で低血圧症になってしまいました。そこで二年次からは、大学近辺に四畳半の安い貸部屋を見つけて、生まれて初めての一人暮らしをする事にしました。
連載第一回目で書きましたが、私は子供の頃から母に、これからの時代は女性も経済的に自立しなくてはならないと言われ続けて来ました。完全自立は無理でしたが、親に少し援助してもらい、週末は自宅に戻りピアノを教える事にしました。
共同トイレ、銭湯通い、 下宿の狭い部屋にピアノは置けないので作曲は当時発売されたばかりのデジタルシンセDX7を購入、下宿のコタツの上にドンと置いてヘッドフォンをつけて行いました。当初は様々なデジタル音源を楽しんでいましたが、何故か1時間過ぎると頭痛がしてきました。今考えるに、当時シンセのデジタル音源は倍音がカットされて、現実のピアノ音の倍音を頭で補いながら作曲しなくてはならない。そのため脳が疲労困憊したのでしょう。仕方がないので、毎日放課後に大学に出向き、空いている講義室のピアノで門限の9時過ぎまで作曲していました。
その頃池袋西武デパートの最上階にあったアール・ヴィヴァンという現代アートの売り場に時間を見つけては出向き、現代音楽のLPレコードや楽譜を眺めるのも都会の一人暮らしの楽しみでした。店長をしていた作曲家芦川聡さん(ブライアン・イーノの環境音楽を音楽雑誌で紹介するなど、日本のアンビエント・ミュージックの隆盛に尽力した知る人ぞ知る存在)と良く話しました。ベートーベンをライバルと思っている生意気な芸大の学生に興味を持たれたのか、ある日、芦川さんからアール・ヴィヴァンでアルバイトを募集しているので面接を受けてみないかと誘われました。週3日という勤務条件は、学生の私には負担に思い、あまり乗り気はしませんでしたが、芦川さんがとても熱心に勧めてくれるので、一応面接を受けてみる事にしました。
面接当日は普段着、サンダルばき、ノーメイク、とんでもない非常識な出立ちで池袋西武デパートへ出かけて行きました。通された部屋には、立派な皮張りのソファセットが置いてありました。深々と腰掛けて待っていると、程なく白い背広のスーツを着た、作曲家の小林亜星さんのような立派な体格の面接官と芦川さんが入ってきました。面接官が黄色の木綿の普段着、素足にサンダル履きの場違いな格好をしたアルバイト志願者に呆れたのか、大して質問もされずに面接は終了したと思います。後日、芦川さんから申し訳ないが不採用、との電話連絡をもらいました。
一人暮らしは何かと出費も多く、母から振り込んでもらったまとまった貯金は一年も経つと使い果たしてしまいました。いよいよ週末のピアノ教師の収入だけでは赤字になり、他のアルバイトが必要となってきました。地域求人情報誌を探すと、夜の居酒屋さんの仕事が昼間の仕事より大分時給が高いことがわかり、そこで10数件のお店に履歴書を持参して、面接を受けました。結果は全て不採用! アルバイトとは言え、人生初の自発的な就職活動が見事に失敗した事は、その後の私の人生選択に少なからず影響を与えたように思います。そもそも居酒屋宛の履歴書に馬鹿正直に「東京藝術大学在学中」などと書けば、使いにくそうだと思われるに違いないし、勉強しかやってこない化粧っ気もない小生意気な娘など、どこの居酒屋でも採用するわけがない。今考えてみれば、ごく当たり前の事です。当時の私は社会常識が著しく欠如しておりました。
その後、同門の先輩の紹介で週一日か二日、目黒のヤマハ音楽振興財団の海外指導部のスタッフとして働かせていただく事となりました。私はこの仕事と週末のピアノ教師で20代は最低限の経済的自立をしつつ、ひたすら作曲の探求の日々を送りました。それは、クラシック音楽の伝統、特にオーケストレーションを研究する事であり、一方では現代日本に生きる作曲家として、自らの作曲語法を獲得する事でもありました。貧乏でしたが、この孤独な修業が今も私を支えているのは確かです。
しかし私の20代のような情報が少ない時代は、人生の選択肢が極端に狭まってしまうのも事実です。現代におけるインターネットの普及は、人間の可能性を大きく広げてくれます。このサイトを読んでいる学生諸君には、音大卒を生かしつつ、様々な可能性にチャレンジして社会に出て行ってほしいと願ってやみません。