芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
「インドへの道」その1
高校生の頃、NHK-FMの番組《民族音楽の時間》を、毎週楽しみに聴いていた。その番組のパーソナリティで民族音楽の研究者、小泉文夫先生が、大学一年次の必修科目《音楽通論》を講義されていた。
私はこの講義を楽しみにしており、毎週音楽学部唯一の階段教室5-109の最前列の席で聴講した。小泉先生はインド音楽が専門、若い頃インドに留学され、講義にシタールを持参されたりもした。未だ見ぬ国、悠久のインドに想いを馳せながら、小泉先生の講義をうっとりと聴いていたのを今も思い出す。
20代後半、自己の作曲語法に行き詰まった時、小泉先生のインド音楽講義を思い出した。当時の私はドビュッシーや武満徹の音楽に共感し、和音の瞬間的な美に拘って作曲語法を追求し続けた結果、10分を超える曲が構想出来なくなっていた。それで満足出来れば、それも良いのだと思う。しかし若き日の私は貪欲で、大きな構成を備えた曲を書く手法を模索していた。メシアン著『わが音楽語法』を読んだりしたのもその頃の事。自分だけの音楽スタイルを確立するのに必死だった。
そんな折、町田にタブラ(北インドの打楽器)の奏法を教えてくれる先生がいるので一緒に習いに行かないかと、文化人類学者の女友達に誘われた。私はインド音楽に特徴的な混合リズムにも興味があったので、躊躇う事なくタブラセットを購入して二人でレッスンに通った。
タブラを習って《ターラ》という北インド古典音楽のリズムシステムを実際に知る事ができたのは有意義であった。しかしドラムセットで言えばハイハットシンバルのような役割の、右手の人差し指全体を真っ直ぐに伸ばしてタブラに打ち下ろすという基本ストロークが、いくらやっても出来ない。ピアノ演奏の習慣でどうしても指先が先に降りてしまうのだ。困り果てている時、タブラの先生のお宅で出会ったのが、インドのバッカンディー音楽大学を卒業され、帰国したばかりのT.M.ホッフマン先生であった。
ホッフマン先生は北インド古典音楽を尺八で演奏される。奥様は日本人であり日本語が堪能だった。北インド古典音楽の演奏者は自ら歌を歌って曲を習得する。その習得方法は西洋音楽で言うソルフェージュにも似ているが、北インド音楽は本来、楽譜と言うものはない。ハーモニーもない。ラーガという多数の旋法で出来ており、演奏者は師匠からの口述伝承で、自ら歌を歌って様々なラーガを習得する。
わたしはインド楽器が演奏出来ないので、ホッフマン先生から北インド古典声楽を習う事にして、ラーガ・ヤマンにはじまる五つのラーガを半年間に習得した。即興演奏のベースとなる北インドのラーガはどれも大変美しく、特に最後に習ったラーガ・プリヤ・ダネジュリーは一番複雑な音階のラーガで大変神秘的だった。
間もなくホッフマン先生は下仁田(奥様の御実家)に戻られた。しばらく経って、インド史研究者の別の友人から、その当時学会で来日しているカルカッタ在住の音楽学者を紹介され、彼からカルカッタで、北インド古典声楽の師匠を紹介してもらえる事になった。そこで冬休みの一か月間、前述の文化人類学者の友人とカルカッタに行くことにした。まずカルカッタで、北インド古典声楽の先生に二週間レッスンを受け、その後インドレールパスを使って、二週間北インド旅行をする予定だった。
しかし女二人の珍道中は、最初からズッコケっぱなしだった。なんと友人は私の独身時代の旧姓で飛行機をブッキングしていて、出発数日前にその事に気がついた。飛行機は既にボンベイ行きの便しか残っていなかったので、当初の計画は大幅に変更せざるを得なかった。
このインドの旅は私にとって人生初めての外国旅行だった。そして初めて足を下ろした異国の地は、当初予定していたカルカッタではなく、誰も迎える人のいない真夜中のボンベイだった。(続く)