芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
「インドへの道」その3
(前回までのあらまし:ボンベイから始まった女2人旅。デリーからは別行動となり、私は国立劇場でインド音楽を演奏していた少年の父親に北インド古典音楽の歌を習う事になる)
デリーではバイオリニストのグル(師匠)から数回、北インド古典声楽のレッスンを受けた。グル(師匠)がハーモニウムという手漕ぎオルガンを弾きながら口述伝承でワンフレーズずつ歌を教えてくれるというレッスンのスタイルは、この後受けた他の北インド音楽のレッスンも同様だ。ここではバシャンと呼ばれる宗教曲を二曲教えてもらった。本場で習う初めての北インド音楽に相応しい、心に沁みるメロディと詞(ことば)だった。レッスン代はどうしたら良いのか息子さんに聞くと、道端で売っているケント(タバコ)を毎回一箱買っていけば良いとの事だった。
この北インド古典音楽のバイオリニストの息子さんはインド音楽特有の高速のグリッサンド奏法(弦を指で擦る奏法)の多用の為、人差し指の先に弦の跡の窪みが出来ていた。古典音楽のプロの演奏家は世襲で、小さい頃からバイオリン一筋に育って来た。
デリーに滞在している間、カフェで偶々知り合った学者さんから、ネルー国際大学の日本文学の教授を紹介され、面会に行った。帰りのバスを待っていると、向かいのバス停で待っている東洋系の中年男性が「日本人か?」と話しかけてきた。彼はネパールから学会でデリーに来ている学者で、子供の頃目撃した、太平洋戦争末期のインパール作戦の話を狂おしく語った。とんでもない数の日本兵の死体が散乱していた無惨な戦いの事を、日本人の私に伝えられずにはいられない感じであった。いわゆる「白骨街道」と呼ばれるインパール作戦の惨敗の事は、話には聞いていた。しかし実際に目撃した人の、語っている時の眼が忘れられない。戦後の復興を見事に遂げ、西洋列強を押し退けて世界ナンバーワンにもならんとしていた当時の日本は、アジアの国々の憧れであったが、こんな悲惨な過去の傷跡の目撃者が、まだアジアには生存していたのだ。
デリーからカルカッタへは、寝台列車アグラエクスプレスで一気に向かった。終点のハウラー駅を降りると、カルカッタの町は首都デリーとは打って変わって、人々の喧騒と車の排気ガスに溢れていて、私の幼い頃の上野駅を彷彿とさせた。地球の掃き溜めのような、発展途上国のもの凄いエネルギーを目の当たりにして、とんでもないところに来てしまった様に思えた。
気を取り直して、タクシーでYMCAに向かった。カルカッタでは各国のバックパッカーの若者が集うサダルストリートの安宿が有名であるが、ここは避けた。(大麻などを勧められたりする事もあるらしいのだ)見知らぬ国では、夜は現地人の案内なしでは出歩かない事が基本である。その日は早々に寝る事にした。カルカッタのYMCAは比較的上等で、バスタブもあった。食事は欧州の滞在者と同席で、フレンドリーに情報を交わせて面白かった。スウェーデンから来たテキスタイルのバイヤーとデザイナー、学会に来ているアイルランド人の数学者等、様々な国の人々が様々な目的で集っていた。
翌日はカルカッタの町を歩き回ってみた。外国人相手の土産屋がやたらに多く、客引きを追い払うのが鬱陶しかった。公園ではたくさんの若い人々が昼間から地べたに座っている。職がないのだろう。人集りが出来ているので行ってみると、大蛇を首に巻いた仙人のような芸人がいた。まさにカオスそのものだった。白い大理石の妙なる彫刻でできたタージマハールの、この世のものとは思えぬ美しさに比べ、ここは人類の矛盾のはきだめのような所に思えた。
友達は既に帰国していたが、私もそろそろ帰国しなくてはならない。カルカッタに迎えに来てもらう事になっていた音楽学者に会うことはとうに諦めたが、情報を得るために、YMCAに教えてもらったカルカッタにある音楽大学に出かけた。タクシーで音楽大学に着くと、元気そうな女学生がいたので、北インド古典声楽を教えてくれる先生を紹介してもらえないかと尋ねた。彼女が色々学内を聞きまわってくれ、北インド古典声楽を外国人に教える事に定評のあるカルカッタ・サンギートリサーチセンター教授、ビルシュ・ロイ師を訪ねる事になった。
ビルシュ・ロイ師はカルカッタの郊外の地下鉄沿線に在住。息子さんも北インド古典音楽の演奏家で、アムステルダムで活躍されていた。グルは英語が堪能で、インドの『ドレミ』である『SRGMPDNS』(サレガマパダニサと読む)を使用した、とてもわかりやすい記譜で教えて下さった。私は既にホッフマン先生から、いくつかのケヤールという形式の歌曲を教えてもらっていた。だが本場のミュージシャンから受けた口述伝承でレッスンは、北インド古典音楽独特の得も言われぬ美しいフレーズに溢れ、私は感動した。
一年後、私は初めての管弦楽曲を書き上げた後、北インド古典声楽の基本である10の音階(タータ)をマスターするため、このグル(師匠)の下に、夏休み二か月間と春休み三ヶ月間、合計四回、2年間に亘り渡印する事にした。