芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
「インドへの道」その4
(前回までのあらまし:ボンベイにはじまるインド古典声楽探訪の旅は、最終滞在地カルカッタで、北インド古典声楽のグル、ビルシュ・ロイ師に出会うに至った。この師の下で10種類の基本タータ(音階)をマスターするため、春休み三ヶ月、夏休み二か月、足掛け2年間修行する事に決めた)
カルカッタから帰国すると、洗足学園音大の作曲理論部の非常勤講師に急遽採用が決まる。作曲活動としては初めての管弦楽曲『Prominence』を書いた。この曲では「神秘のラーガ」と言われるプリヤダナシュリーを用いた。秋にテレビ朝日とユネスコ主催のシルクロード管弦楽コンクールに入選、井上道義指揮、新日フィルによって初演された。そして初めての渡印から一年後の春休みの2月末から4月半ばにかけて、再び北インド古典声楽のレッスンを受けにカルカッタへ向かった。そしてこの習得の旅は翌年夏まで、足掛け2年継続する事になった。
カルカッタは熱帯モンスーン気候であり、乾季の終わりの三月になると地表に熱が籠り、昼間は何と摂氏50度にもなる。外に出るとまるでサウナの中を歩いているようだった。滞在中は、土日以外は毎朝夜明けの5時にタブラ奏者にステイ先に来てもらい、みっちり朝練。朝食後、グルの家に行きレッスンを受けるという日々を送った。
雨季の夏は、毎日昼前にスコールがやってくる。雨が止んだ後は凄まじい蒸し暑さで、昼食後夕方まではひたすら寝るしかない。エアコンなどない。夏に遊びに行ったプリー(地名)の海岸には原発があり、定期的に核廃棄物を海に流していた(廃棄物を流す時は遊泳禁止になるそうだ)。インドの各家庭が日本並みにエアコンを所有したら国中の電力はパンク、原発がいくつあっても間に合わないかも知れない。
カルカッタは11月から1月にかけてが一番過ごしやすい季節である(日本の10月から11月の陽気)。最初にインドを訪問した年の1月に、インド中のトップミュージシャンが集うオールナイトのドーバーレーン・コンサートに出かけた。時を忘れてのインド音楽三昧は至福の時だった。
インドでは長い歴史、厳しい気候の下で人々も音楽も逞しく生き続けている。至る所に病原菌が漂っている雰囲気があり、ちょっとでもこちらの抵抗力が弱れば、容赦なく襲いかかって来る。病気や死がいつも身近なところに存在しているのだ。そんなインドで長期のレッスンを受けたのは、北インド古典音楽の10種類の旋法の魅力に取り憑かれた、若き日の私の情熱故である。
西洋音楽にも、古くはグレゴリオ聖歌などに使われている7種類の音階(教会旋法)があった。しかしルネッサンス期に和声法が生まれ、その後バロック時代を経て古典派の時代に至り、和声法に用いる長音階と短音階以外の音階は淘汰されてしまった。教会旋法はジャズのモード奏法に僅かに使用される事はあるが、西洋では現代のポピュラー音楽に至っても、ほぼ和声法による音楽が主流なのである。
インドやアラブの古典音楽は音楽の三要素、リズム・メロディー・ハーモニーのうち、リズムとメロディーのみで構成され、ハーモニーは存在しない。そのかわりメロディーの音楽表現に於ける重要性が高まる。北インド古典音楽には10種類の基本音階(タータ)から成り立つラーガ(彩りを意味する)が何百種類もあると言われている。延々と口述伝承されて来たラーガの彩りを表現する様々なフレーズや、ターンと言う複雑なリズムパターンの旋律形を、私は毎日師匠から学んだ。それらを朝と夕に必死に反復練習し、二年間でようやく目標の10種類の音階(タータ)から成るラーガを体得出来た。
二年間の修行を終えた後、日本で北インド古典ボーカリストとしてシタールと共演する事もあったが、北インド古典音楽の体験は、寧ろ自作の歌曲等のフレーズに、ごく自然な形で生かされている。辞書に載っている素材をそのまま借用した人工的なものではなく、インドの風土の中で受け継がれたものを一度自分の中で消化し、それまで学んできた西洋音楽語法と融合させるのが私の作曲法である。北インド古典音楽のフレーズをあるがままに用いるという意味では日本人的なのだと思う。インド音楽の方法に倣って独自の旋法を発明して自作に適用すると言うメシアン流の作曲法とは、ある意味対照的なのかもしれない。
北インド古典音楽の持っている、しなやかで多様な旋律は、拙作の合唱組曲『スペインの七つの水』(ガルシア・ロルカ詩)、『ルバイヤート交響曲』、『MABOROSI~オペラ源氏物語』(作劇:林望)等にも、随所に生かされており、或る音楽評論家に『二宮節』と称された事もある。