芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
「オーケストラ曲との格闘」その1
過去に何度か天才の神技としか思えない作品に遭遇し、作曲家になんかなるんじゃなかったと思った事がある。それは(モーツァルトは問題外として)ショスタコービッチの第一交響曲の無駄な音のない完璧なスコアを読み、この曲は何と19歳の時の作品であることを知った時、ストラビンスキーが『火の鳥』、『ペトリューシュカ』、『春の祭典』の三大バレエ曲を30歳までに作曲したことを知った時、そしてテレビ番組《題名のない音楽会》の司会で有名だった黛敏郎先生が『涅槃交響曲』、『曼荼羅交響曲』を30歳までに作曲した事を知った時である。
黛先生は芸大で《管弦楽法》の講義を担当されていた。私は不覚にも黛先生の第一回目の講義に遅刻してしまい、教室の一番後ろの席に座った。黛先生は終始遅刻学生(私)の顔を見ながら、テレビ番組に出演されている時のように原稿も見ずにスラスラと講義をされた。黛先生の講義の終了後、松村先生の作曲レッスン。レッスン終了後に、学食で松村先生や他のレッスン生とコーヒーを飲みながら談笑している所に黛先生が偶々入ってこられた。私を見るなり「君は先程、私の講義に出ていましたね」と仰って、我々の談笑に参加された(松村先生は黛先生を大変尊敬しておられ、芸大の非常勤講師に招いた。二人とも伊福部昭氏の門下生である)。「僕達の若い頃は映画音楽で食べられたけれど、今の若い作曲家は本当に大変ですね」と黛先生が仰ったのを今でも覚えている。
黛先生の《管弦楽法》の講義は、年度末に芸大附属オーケストラ(芸大オケ)による試演会で締め括られるのを恒例とし、受講生に人気であった。芸大オケは実は日本唯一の国立オーケストラであり、管弦楽法の受講生はこの試演会で、名曲のアレンジや自作の音出しをしてもらう事が出来た。大概の学生はアレンジものを提出していたようだが、私はこの時とばかり『管弦楽のための断片』と銘打った短い管弦楽曲(修作)を生まれて初めて作曲し、パート譜を作成して期限ギリギリに黛先生に提出した。黛先生は困惑しながらも、私一人を教室に残して丁寧に新作スコアを見て下さった。その時は弱奏部分におけるホルンの弱音器の装着のアドバイスを頂いたが、お忙しい中を大変有り難く思った。
試演会当日、指揮科学生だった現田茂夫氏が朝6時半から9時の本番前まで、順番に一人ずつ丁寧に打ち合わせをして下さった。大抵の曲はアレンジのため試演は一回だったが、私の曲は新曲だったので、現田氏は特別に芸大オケに拝むようにお願いして下さり、2回演奏出来たのは有り難かった。『管弦楽のための断片』は武満徹の曲を穏やかにしたようなサウンドの演奏時間3分くらいの修作であったが、当時の私には精一杯の内容だった。管弦楽曲を発想するには、当時の私はあまりにも音楽的経験が浅かった。
私はピアノ演奏から音楽の道に入り、高校は学区で唯一管弦楽部があった横浜平沼高校を選び、チェロを始めた。学校への行き帰りの横須賀線のラッシュが凄まじく、楽器を家に持って帰ってさらいたかったのだが、先輩に楽器の持ち帰りを許してもらえず、結局オーケストラ部を退部した。高校のオーケストラ部での合奏経験を逃した事は、のちにオーケストラ曲を書く上で大きなハンディキャップになったと思う。
芸大の卒作のため、リゲティ作曲『アトモスフェア』(キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』で使われている)のスコアを拡大コピーし、マイクロポリフォニーを詳細に分析した。そしてトーンクラスターという書法でピアノコンツェルトを作曲し提出した。松村先生は黙って卒作スコアを眺めておられた。芸大の師匠達の曲を勉強した痕跡が全くないせいか、浦田健次郎先生には傲慢だと言って罵倒された。この曲で何とか学部の卒業はできた。
私はオーケストラに関しての古典の知識の無さを痛感し、20代後半はたくさんのオーケストラ・スコアを勉強し実際の響きを聴くために音楽会に足繁く通った。研究対象には現代音楽もあったが、ラベルやドビュッシー、リムスキー・コルサコフが中心だった。この頃、岩波映画の今泉文子監督と出会った。今泉監督は、芸大の体育の助手をされていた羽田富子先生から紹介された。当時は今のようにインターネットがなく、誰もが容易に公募にアクセス出来る時代ではなかったので、仕事は全て偶然の人間関係によるものだった。初仕事は前田建設のPR映画。以後、長年に亘り岩波映画の仕事をさせて頂いた。
今泉監督は、何と音楽予算100万円の『はじめはみんな赤ちゃんだった』という題名の映画の仕事を取って来て、「音楽はオーケストラで行こう!」と仰った。当時私が「オーケストラ、オーケストラ」と念仏のように唱えていたのをご存知だったのである。大感激だった。早速、早稲田のアバコスタジオを押さえ、インスペクターとコンミスはバイオリニストの安田紀生子氏(彼女は現在、私と安田氏とのユニット《タンゴマドンナ》のパートナーである)にお願いした。彼女はすぐにオーボエの故小嶋葉子氏等、N響を中心とした豪華なメンバーを集めてくれた。彼らのアンサンブルは驚異的で、一度のリハーサルで二度目は一矢乱れる事なく、ピタッと決まった。『ブラームスの交響曲4番の第二楽章』のような感じで、という今泉監督の指示に従い、この時作曲したのは調性のあるオーソドックスな曲であった。初めてのオーケストラ曲を実際に演奏してもらう事が出来たのは、大感激であった。
そして最初のインド滞在から戻った直後にインド旋法を駆使して書いた初めての管弦楽作品『Prominence』が、シルクロード管弦楽作曲コンクール(テレビ朝日、ユネスコ主催)に入選した。このコンクールは黛先生が企画され、審査員は黛先生の他、『三人の会』の作曲家(芥川也寸志、團伊玖磨)、松村禎三先生、指揮者の山田一雄氏、それに上海音楽院の作曲科教授だった。当時の日本の経済状態を反映して、優勝賞金は500万円!世界各国から何と315曲の管弦楽曲の応募があった。その中の10曲が入選となり、井上道義指揮、新日本フィルで演奏された。
当時、パート譜は写譜屋さんによる手書きであったため、受領後から1回目の練習までにあまり日数がなかった。後輩達に手伝ってもらい、徹夜でパート譜の校正をした。第一回目の練習の結果は悲惨。意図した通りにオーケストラが鳴っておらず、死にたくなりそうだった。井上マエストロは1回目の練習は大体こんなものだと仰ったが、私は家でスコアを見ながら練習の録音を聴き愕然とした。私の譜面指示が不十分のため意図が演奏に反映されなかったのである。訂正箇所はかなりの量になったが、箇条書きにして2回目の練習の前にマエストロにファックスで送った。マエストロはこれを全て読み、すぐに私に電話で確認された。そして2回目の練習ではオーケストラに全の指示が行き渡った。本番は完璧な演奏だった。演奏現場の経験がなく、オーケストラ作曲は初心者である私の注文に、快く付き合って下さったマエストロの謙虚さには、今思い出しても頭が下がる。
60段のスコアに、やりたい放題書きまくった曲は、既成のオーケストラ曲の書法のコピーではなく、20代の私の独創的実験に溢れていたが、いかんせん、作曲法としては統一感がなく幼稚なものであったので、入賞は出来なかった(浦田先生には「木を見て森を見ずだな」と言われてしまった)。受賞式のレセプションパーティーで、黛先生は私を見つけて「君のスコアを見て、是非音にしなくてはいけないと思った」と仰って下さった。初のオーケストラ作品への挑戦は見事な討ち死に終わったが、私にとって大きな財産となった。黛先生、井上道義マエストロ、そして今泉監督、現田茂夫氏の諸先輩には、振り返ると感謝の気持ちで一杯である。