芸術至上主義作曲家
~絶滅危惧種~の音大回想録
「オーケストラ曲との格闘」その2
(その①のあらまし:私が初めて作曲したオーケストラ曲『Prominence』はシルクロード管弦楽作曲コンクールに入選し、井上道義指揮、新日フィルで演奏された。その経験により、私は作譜と演奏効果の間の懸隔を痛いほど悟ることになった。)
私はオーケストラ体験を積むために、ウィーン留学を終え戸塚区民オケの指揮をすることになった、同門の先輩作曲家の長谷川勉氏の助手となった。ブザンソン指揮者コンクールで優勝した沖澤のどか氏等、女性指揮者が世に認められてきたのは最近のことである。私の若い頃は市民オケでさえも、単に女性というだけで女性指揮者を嫌っている男性奏者は少なからずいた。プロの女性指揮者たちが練習場でそのような楽団員に苦労された事を、現場にいた演奏家の友人からも聞いた。
読者の中には、将来、合唱やアンサンブル、ブラスバンド、オーケストラ等の指導をされる方もおられるだろう。私も最初は経験が少ないために、あれこれ言われ傷ついたものである。しかし段々音楽現場の経験を積むにつれ、そんな事は何ともなくなった。誰でも仕事の始めは初心者なのである。何を言われても挫けずに、どんどん経験を積み、自信をつけて行ってほしい。
コンクール入選後、プロ合唱団である東京混成合唱団と東京レディースシンガーズからそれぞれ合唱曲の委嘱を受けた。私にも合唱経験はあるし、受験期に和声学を散々学んだので、これらは思うように書けた。その頃、サントリーホールのこけら落としで、F.コソット主演の『カルメン』(演奏会形式)を聴き、ベルカントの魅力を知ることになった。歌曲の作曲にも取り組みつつ、徐々にオペラに興味が湧いて来て、休暇を利用して積極的にヨーロッパ各地のオペラハウスを訪ねることになったのも、この頃からである。
管弦楽を自家薬籠中のものとするには、しかしまだまだ修行が必要であった。その頃、横浜市ボランティア協会から、ボランティア育成基金チャリティ・コンサートの指揮とアレンジを依頼された。そこで私は音大出身者による横浜リリック・シンフォニエッタという一管編成のオーケストラを結成し、コンサートの実行委員会の助けを得て、横浜みなとみらい小ホールでチャリティ・コンサートを行った。このコンサートはその後5年間、毎年開催された。私は毎回オケ・アレンジと指揮を行った。徹夜続きの大変な仕事であったが、『美しき青きドナウ』に始まり、歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』のハイライトシーン等、有名曲を指揮するという貴重な経験をした。演奏収益は若きボランティア・リーダー達の育成に充てられ、リーダーたちはその後、東日本大地震の時に活躍したと思う。
同時期に富山の箏曲演奏団体から、箏曲アンサンブルにマリンバ、ピアノ、フルートが加わるという特殊な編成のオーケストラのドイツ公演のため、新作の作曲と指揮を依頼された。ワイマールとフライベルクで演奏を行った。
また、重度脳性小児麻痺の息子さんを持つ友人の声楽家・ピアニスト夫妻から、作業場で働く障害児や定年退職者のコーラス、そしてプロの歌手のためのオペラ『きつねとお地蔵さん』(台本:北原みなみ)の作曲と指揮を依頼され、1年間に7回も公演を行った。翌年、松本音楽ホールに招待され、このオペラのパイプオルガン・バージョンの初演を指揮した。
このように音大卒業後、徐々に音楽家として社会に関わるようになったのである。そして私の代表作品の一つである、ソプラノと管弦楽のための『ルバイヤート交響曲』を作曲するに至った。この管弦楽曲には、それまでの私の体験が生きている筈である。初演は渡邊一正指揮、東フィル、ソプラノ独唱は、ミラノでドミンゴと共演した塚田京子氏。『Prominence』の初演から10年を経て、ようやく自分の思うようにオーケストラを鳴らすことができた。この曲はその年の尾高賞の候補曲として東フィルから推薦された。(つづく)