練習場所と時間の確保
パリの街並みは統一感のある美しい石造りで有名ですが、歴史を感じる外壁をくぐると意表を突いたモダンなパラダイスが広がっていたりします。改築を重ねて、中は迷路になっていることもしばしば。廊下を介して実は違う通りの人と隣同士だったり、Google earth で見ると中庭の緑が多かったりと驚きます。
私はパリで3回引っ越しをしましたが、グランドピアノを運び入れて、毎日弾ける物件を見つけることは簡単ではありませんでした。250kg超の重さもさることながら、あの形。細い螺旋階段や鋭角に曲がった廊下では運び入れることができません。窓から搬入するには、クレーンを停められる道に面した窓のある部屋であること、あのお洒落なバルコニーの黒い手すりを一旦外し、後日取り付ける業者を頼まなければならず、その許可をアパートの管理組合に得ることなど、面倒なことこの上ない。
音楽家専用のアパートは珍しく、防音設備の販売も殆どないので、普通のアパートで隣人と戦いながら暮らすというのがパリでの音楽生活の基本でしょう。商店の上、墓地や駐車場の隣、最上階、半地下などの物件を探して、そこに分厚いカーテンを張り巡らせるなどの工夫が必要です。しかし、フランスでは他人に迷惑をかけるのを日本ほど気にしませんし、文句を言ったら報復されると考える人もいないので、気軽に言い合いしているように感じます。
また、どのアパートでもペットが飼えるので、鳴き声も聞こえるし、古い街は常にどこかで工事をしているので、そういった騒音もあります。建物の構造が複雑なだけに、はて、角部屋なのにどこから音がくるやら⁇
かつて私もラフマニノフをガンガン練習していた時、配管を伝わったのか、遠い遠い部屋の人から「やっと見つけた! ここからだったのか、もうその曲はやめてくれ」と怒鳴り込まれたことがあります。逆に拍手が聞こえてきたり、「次はバッハにしてくれ」とリクエストがあったり、もう弾かないからと上階の老人からたくさんの古い楽譜を譲られたこともあります。音楽を通して得たパリの思い出は語り尽くせないほどあり、微笑ましいですが、やはり思う存分弾ける場所が自宅にない人は、スタジオを持っている知人、郊外の隠れ家、職場や学校の練習室などの確保が不可欠です。
もうひとつ大切なのは練習時間です。楽器によって違いますが、ピアノは群を抜いて練習時間が長いので当然生活リズムも変わります。
私の場合、朝型人間なので、パフォーマンスの高い午前中は自分の勉強時間、午後は自由時間、夕方から教えるのが大まかな基本スケジュールです。夜は、学生時代からコンサートにもよく出掛けています。生演奏は大大大好きで、楽器の生音、演奏者の研ぎ澄まされた緊張感、会場の響きに触れるのは、勉強と趣味を兼ねた至福の時間です。
実は大学卒業後、練習や勉強をしなくなる音楽家は意外と多いです。苦情が来たり、仕事が見つからなかったりしたらめげるし、生きていくのに大変で、忙しい毎日の中で純粋な情熱が続かなくなるのも当然です。でも、もし楽器が弾ける場所と時間があれば、それだけでも安心です。
フランスでアパート探しをするかもしれない方へ。ご近所さんと初めて話す時は「音楽はお好きですか?」と聞くと、たいていの皆さんが「ウィ」。「私も少しピアノを弾くんですよ」などとにっこりしてくれます。楽器が運ばれてくるところを見られると、その巨大さにギョッとされますが、あとは心地良い音楽から静かに始めて、少しずつご近所さんに慣れてもらいましょう。ベートーヴェンの悲愴の2楽章の冒頭部分とか。これで私の場合は毎度うまくいきましたけれど……、保証なしのエピソードということで。
