其の三
<ピエール=ロラン・エマールのこと>
音楽家が他の誰かと共有すべき問題意識を持つならば、やはり同じ時代に生きる音楽家が成す音楽について深く知るべきだと思います。積極的に社会が抱える問題に飛び込めとは申しませんが、時が過ぎ、社会も変貌し、人の心も変遷するのですから、新しい課題は常に新たに生まれてきます。すでに起きている問題をひとつひとつ解決していかなければ、次の世代に山積みされ残された問題を押しつけるだけになるのです。ですから、若い人はとりわけ現実で圧倒的な価値観に対して懐疑的であってほしいと願います。すでに定まった評価というのはやがて朽ちていくものです。そこにしがみついていても、溺れた犬のように、さらに棒で叩かれるだけになるのです。
ピエール=ロラン・エマールはあらゆる意味でただ音楽家であることを超えた、おおよそ思いつく存在をまた遥かに超える「超人間」です。つい最近日本でメシアンの『鳥のカタログ』全曲(3時間を超える)を一気に演奏するコンサートを開催し、タケミツメモリアル満員の聴衆を圧倒的に魅了し、異次元異空間に誘ったばかりです。もう何度も来日なさっているので、どこかで生演奏に触れたことのある音大生の方も多いことと思います。録音も多数あるので、その驚くべき多彩なレパートリーで、また古典で親しまれた方もいらっしゃるかと思います。どのような時代や作風であっても、エマールの奏でる音楽は、うまく形容する単語が見つからないのですが、音楽と称される枠を超えて、宇宙からのメッセージというか、あるいは宇宙の彼方へのメッセージというか、何か地球での小さなあれこれを一気に解決する力があるように感じます。素晴らしい機会でご一緒させていただいた指揮者や共演の皆さんとのことはひとまずまたにさせていただいて、今回はそんなエマールとのちょっとしたエピソードをいくつかご紹介しようと思います。
上:オーディトリウム、リヨン
下:PMF、札幌
エマールと私との共演はメシアンの『トゥランガリーラ交響曲』で、もう10回以上になるでしょうか、リハーサルから通算するとほぼ一か月以上彼の演奏するピアノの真横で、その音楽作りをつぶさに体験し、客席で聴くのとはまた違うダイレクトな音の洪水(もちろんいい意味です)に陶酔する機会を持つことができたことになります。もちろんピアニストだったら指の使い方、体の重力の利用、ペダリングといった技術的に学べることも多いでしょうし、そのひたすら美しい音楽の「作り方」は他の楽器奏者にとっても参考になることでしょう。こんな「お傍」でエマール様を体感し続けるのはほとんど恍惚の境地です。しかもちょっとした瞬間にある音楽的な一致が生まれると、決まってこちらに笑みを投げかけてくださる、もう至福の極致と言わずして..なのです。初めての共演の時、オーケストラの練習場で決していい状態とは言えない練習用のピアノで、サラっと試し弾きを始めた瞬間、ザワザワしていた団員たちが一瞬にして静まり返り、次は何が起こるのかとまさに固唾をのんで待ちわびる図になりました。誰もがこの演奏会はエマールのためのエマールによる演奏会になると会得したのでした。
ある時、携帯のメールを読む彼に、不思議な表情を見て取ったので、何かあったのかと恐る恐る尋ねてみると、録音とマスタリングが終わったばかりのメシアンの『幼子イエスにそそぐ20の眼差し』のマスターデータのハードディスクが忽然と消えたと、エージェントから連絡が来たとのこと。盗難らしいとのことでしたが、すぐに彼はまた新しく録音すればいいのだから、ともう気に留めない様子でした。納得いかないのはこちらで、このニュースを追いかけていたのですが、フランスの音楽雑誌ではかなり大きく扱われ、しかし結局見つからないまま、数年後、言葉通り録音をし直し、そのCDはいろいろな賞を受けることになるのですが、「またこの曲について勉強をやり直して、もっといい録音ができるからね」と笑顔に戻っていたことを思い出すと、アーティストとしての姿勢に真から頭が下がります。私だったらずっとずっと忘れられず、くすぶったまんまだろうなぁと。
リヨンのエマールのご実家、ご両親と
グルノーブルでの演奏会があり、リヨンから車をご一緒させていただいたことがあり、道中迫りくるアルプスの山々の岩肌に目を奪われつつ、様々お話しさせていただいた時に、実はいくつか前述のことも確かめてみました。ピアノがどうあれ、「自分の音」で瞬時に演奏できるのは何か秘訣でもあるのか? という問いに、「それは自分のメティエだから」というシンプルな答え。フランス語でメティエとは、訳せば職業なのだが、どちらかといえば職技を伴うような仕事を意味し、宗教的でもまた金銭のためだけでもなく、自分の持つ技能を日々淡々とこなしているだけだよという謙虚だが、また誰もができることではないことを熟知したうえでの強い自信なのだろうと思うのは勝手だろうか。
あるエマールのソロ・リサイタルで、それはバッハのみでプログラムが組まれていたのですが、最初の一瞬にして=今文章にしてみても全く的を得た言い方が見つからないままなのですが、会話ではもっとちゃんと言えなかったと反省です=その夜あなたがやりたいこと、言いたいことがわかった気がした、宇宙からのメッセージ云々、と図々しく本人を前にして、いや横にして、言えたものと猛省しておりますが、「ああ、その音楽家がやりたいことは瞬時にわかりますよね」。コンクールとかでも、5分も聴けばその音楽家はわかると偉い先生たちはおっしゃいますが、深いところは時空を超えて魂に突き刺さるということなのでしょう。あとは音の快楽に身を委ねていればということかなと考えるこの頃です。
メシアン トゥランガリーラ交響曲 第五楽章「星たちの血の喜び」
エマール、小澤征爾、ボストン交響楽団と私、フィルハーモニア、ケルン