其の五
<出会いは偶然、いつでも何度でも 後編 メシアン、イヴォンヌとジャンヌのロリオ姉妹>
LPレコードでしか聞くことのできないオンド・マルトノへの憧れが募るがままの学生時代、やっと運転免許を取得して、親の車を借り、ひとり当てのないドライブに出かけました。学校のすぐそばだった実家から車で数分も走ると、その当時まだまだ未開発の空き地がたくさんあり、畑があるかと思うと、誰か住んでいるのか疑問になるような庭も荒れ果てた古い家があったり、ついには幼い頃から歩いたり走ったりして遊んでいた記憶とは大分かけ離れた地域に迷い込んだようでした。
カーナビなどもちろんある時代ではなく、紙の地図を拡げてもただ広く茶色に塗られているだけで、私はだんだんと暗くなる空を見つめ、不安に苛まれる一方でした。
そのとき、今思い出すといかにも昭和の洋館といった風情の一階建てのお宅の玄関に続く、すでに枯れてしまったバラの枝が複雑に絡み込んだアーチの傍らに、一人のご老人が立っていらっしゃることに気付きました。ちょっと道案内をしてもらおうと車を傍らに停車させ、ゆっくり車から降りつつ「すみませ~ん」と声をかけようとすると、その間もなく、彼女のほうから「どうぞお入りなさいませ、あなたを待っていたのですわ」と、それは言葉というより何かのメッセージかのように、私の心に入ってきました。
ご老人と書きましたが、それは学生だった自分の感覚であって、50年近くも経った自分と比べれば、ほんの少し年上だっただけなのかもしれません。
「いやあの、道に迷って..」
「オンド・マルトノってご存知でしょう?」
「えっ、どうしてそれを…」
「パリに行きなさい。あなたにとっての何もかもが見つかるから」
確か居間に通してくださって、オンド・マルトノが美しく入っているジャック・ブレルのシャンソンのレコードを聴かせてくださったような…。それから、道を尋ねても「あなたはもう自分で道を見つけたのです」と、道路については何も教えてくださらないまま、背中を押されるようにその家を後にしました。不思議なことに一つ角を曲がると、すぐによく知っている道に戻りました。家に帰ると、何もかも日常の繰り返し通りの夕ご飯が待っていました。
あれから地域の開発も進み、行政区も分割されて新しい区ができたり、二度とその家とご婦人に出会うことはありませんでした。
巴里、パリ、花の都
小澤征爾さんと2000年ドイツにて
街角に歌が流れ、おせっかいはしないけれど、手を伸ばせばいくらでもその手をひいてくれる街。やって来ました。そして願えば叶う。思わず早い時期に、とうとうメシアンのトゥランガリーラ交響曲を生で聴けるチャンスが巡ってきました。その頃パリ一番のコンサートホールだったシャンゼリゼ劇場のずっとずっと後ろの学生席。少し乗り出さないと、オンド・マルトノの楽器も半分しか見えないような安い席、後に先生となってくださったジャンヌ・ロリオ、ピアノはもちろんメシアン夫人のイヴォンヌ・ロリオ、指揮は小澤征爾さん、メシアンもいつものようにリハーサルから全て臨席していらしたそうです。
衝撃でした。異様と形容したいほどに突き刺さる演奏家の表現力、魂の奥底を震わすような音色、ビブラート。今さら音大生の皆さんは信じないでしょうけれど、その頃の私はとてもシャイで、ほとんど知らない人とは会話のできない、そのうえフランス語もまだちゃんとは喋れないのに、終演後感激のままに楽屋に飛び込んでいったのです。あぁ、なんてことでしょう。現代では警備員に止められるだけなのでしょうか。そのとき全てがスタートしました。楽屋のドアをドンドン! 文字通りとんとんではありません、ドンドンでした。
誰かが近寄ってきて、「Seijiに会いたいのかい?」
私「ジャンヌ、ジャンヌ」
彼「#X0=.<$%{/*」
私「???」
きょとんとしていると、身振りで服を着替えていると教えてくれました。そして何か楽屋の中に向かって叫んでくれて、「待っててね」とウィンクして去っていったのです。カッコいい…。
そしてついにジャンヌとお会いできたのです。メシアンやイヴォンヌともお会いできて、その後につながっていくことができたのは何という幸運でしょうか。ジャンヌはそんなに興味があるなら、コンセルヴァトワールのクラスに見学に来るようにと、時間と場所を教えてくださいました。伝わったのは言葉ではなく熱意だけだったかもしれません。
そして翌週おどおどしながら、まだマドリッド通りRue de Madridにバレエと同じ敷地にあった昔のパリ・コンに出かけて行きました。あぁ現代では門番に追い返されるだけなのでしょうか。今新しい学校ではドアのロックが厳重で、いくつものコードを知っていないと中には入れません。その頃はもう出入り自由で、生徒たちもその自由な雰囲気を十分に満喫していたように思い出します。
そしてレッスンが始まりました
その時は8人の生徒が学校の同じ楽器で同じ曲を勉強していたわけですが、驚かされたのは全く一人一人の音色が違うことでした。おかしい、電気の楽器のはずなのに、生のアコースティックな楽器みたいだと、訳のわからないまま、レッスンが終了し皆が帰った後、ジャンヌはとても親切にも時間を作ってくださって、
「さぁ、弾いてごらんなさい」
「そ・そんな」
「ほら、右手がこう、左手がこう」
「な・なるほど、ここをこうして…ええ、音は出るけど全く音楽にならない」とこれは心の声。
「勉強を続けたいですか?」
「も・もちろん、こんなに歌心が伝えられて、スイッチではなく、演奏家一人一人の表現でいかようにも音色を作ることができる楽器こそが僕の求めていたものです。今はまだ何も表現できないけれど、練習することで達することのできる何かがあるはず」もちろん心の声。
そうして楽器をすぐオーダーしても半年から一年後になってしまうから、ご自宅のご自分の楽器で私が練習できるようにと、彼女が出かける日と時間を書き出してくださって、
「コンシェルジュに伝えておくから、鍵を預かって自分でバンバンしなさい」と、最低限のレッスンを施してくださり、楽器を片付けると颯爽と2CV(シトロエン車)に乗って去っていったのでした。かっちょいい…。
しかしどこの誰ともわからず、どなたかからの紹介状を携えているわけでもない、いきなり楽屋に現れただけの、東洋から来た痩せた若者にこんなにも便宜を図ってくださり、それからずっとずっと惜しみなく自分の秘儀を伝えようとしてくださったこと、振り返ってそれだけのことを自分ができているのか恥ずかしくなります。イヴォンヌもまたとても親切にピアノのレッスンを何度かしてくださったことがあり、やはり自分だけの音色へのこだわりや、その生徒に伝えられることを何とか見つけて伝えなくては、というお考えで頭の中がぐるぐる渦巻いていらっしゃることが印象的でした。
上:左イヴォンヌ・ロリオ 右ジャンヌ・ロリオ
1992年病床のメシアンが呼んでくださった
パリ・バスティーユ・オペラ座のこけら落とし
公演「アッシジの聖フランチェスコ」の際に
日本料理屋にて
下:1986年同オペラ 日本初演の際のメシアン
メシアンのクラスで直接学んだわけではありませんが、ロリオ姉妹といつもいつもご一緒でしたので、私の演奏をとても喜んでいてくださり、トゥランガリーラ交響曲やオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」について、たくさんお話していただき、オンド・マルトノのパートについてのアドヴァイスをいただきました。それでいて決して偉ぶることのない、実れば実るほどに頭を垂れる大人物と呼ぶにまさにふさわしい人物であったと思います。
お三方ともとりわけ若い人たちに寛大で、また何か手助けできることはないかと常に考えていてくださり、何より自分のスタイルを押し付けるのではなく、一人一人が異なる自分の世界を創り上げるように手助けをしていてくださいました。そしてあれから20余年、同じ小澤征爾さんとトゥランガリーラ交響曲の演奏のために、シャンゼリゼ劇場の舞台に立てた時の感慨はとても言葉で言い表せられません。確かにパリは私を大人にしてくれました。精神は世間に対して尖がったままでしたけど。
今回はギリシャ神話のオルフェウスなのか、あるいは宇宙の彼方からの声なのか、そんな恩師ジャンヌ・ロリオのもう圧倒的な技術に裏付けされた信じられないような音楽性を感じていただけたらと、アンドレ・ジョリヴェ1947年作曲のオンド・マルトノとオーケストラのためのコンチェルトをご紹介させていただきます。1966年の録音、指揮もジョリヴェ自身。これもLPレコードをそれこそ擦り切れそうになるまで、また擦り切れても聴き続けていた大傑作、超名演です。