音大生にエール!
連載68

非音大卒いけてる原論①
音楽家とは誰か?
何でもない人からの問い

音大生の皆さん、こんにちは。池上輝彦です。Who?ですよね。ダレコノヒト。「音大生ならこのくらい知っておきたい」なんて始めそうな超有名人のあの池上さんではありません。何でもない人、なぜか登場。あえて言えば、私は単なる音楽ファンです。音楽ライターや音楽ジャーナリストの肩書で雑文を書いています。新聞社員でもあります。

「音大生にエール!」の連載を頼まれましたが、私は演奏家でも作曲家でもなく、音大卒でさえないのです。音大に入学したこともなければ音大の教職員でもない門外漢。場違いですね。アウェイ感が募ります。まずは自己紹介が普通ですが、「何でもない人」に皆さんは興味も湧かないでしょう。そこですぐ本題に移りたいと思います。

「音楽家とは誰か?」。この問いから始めます。音大生の皆さんは音楽家ですか。私はそうだと思います。では、私は音楽家でしょうか。

「音大で勉強したわけじゃないでしょ」

体験談その1。かつて私はクラシック音楽担当の編集委員として新聞社で取材・執筆の仕事をしていました。そのとき言われたのは「音大で専門的に勉強したわけじゃないでしょ」。

風景写真1 体験談その2。まもなく私は別の部署に異動しましたが、編集委員としてクラシック音楽の記事を書いた実績から、「楽器は何を弾きますか」と聞かれました。私が弾ける楽器はギターとキーボードくらいで、素人レベルです。そのことを伝えると「ピアノやオーケストラの楽器は弾けないのですね」。そして「キクセンですか」と吐き捨てられた言葉が胸に突き刺さりました。「キクセン」とは「聴くこと専門の人」という意味なのでしょう。

私は音楽家でしょうか。「あんたもくどいね」「ありえない」「引っ込め」との声が聞こえてきそうです。「非音大卒のキクセン」、しょんぼりしますね。ただ、「キクセン」と断定されるのは心外です。私は高校時代、ロックバンドを結成し、ボーカル、ギター、キーボードを担当。プロへの登竜門だったアマチュアバンドの某コンテストの地区予選を勝ち抜いた経験もあるのです。バンド仲間と作曲もしました。それでも「キクセン」でしょうか。

「しょせんはアマチュアでしょ」。その通りです。非音大卒のアマチュアロックバンド経験者。「そんなの掃いて捨てるほどいますよ」という声が今はっきり聞こえました。どうやら音大で専門的に学んでいるか、プロの歌手、演奏家、作曲家でなければ音楽家とは認めないという風潮が日本社会には根強くありそうです。

ところで私は「キクセン」を否定するものではありません。趣味のギターや過去のバンド経験を抜きにすれば、「聴くこと専門の人」という呼称は自分に合っていると実感します。音楽を聴くことの専門家、音楽鑑賞家です。

マーラー鑑賞歴は半世紀と長いのですが……

私、音楽鑑賞歴だけは長いのです。自宅になぜか大量にあったクラシック音楽のLPレコードを、物心つく頃から聴いてきました。ほぼ半世紀、マーラー、ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ドビュッシー、ショスタコーヴィチらの音楽を聴き続けていることになります。小中高校生の頃が最も高音質で鑑賞していたと思います。サンスイのアンプ、パイオニアのプレーヤー、トリオのスピーカーとチューナー、ビクターのデッキという高価な大型ステレオセットでレコードやカセットテープを毎日何時間も聴きました。

私の音楽環境で恵まれていたと言えるのは、実家にレコードとステレオセットがあったということだけです。両親は演奏家でも作曲家でもない「何でもない人」でした。にもかかわらず、バロックから現代音楽まで一通り網羅する名曲のレコードが揃っていました。

風景写真2 父が何のためにクラシックのレコードを買い集めたのか知りません。私が熱中して聴くようになるとでも見込んだのでしょうか。そのわりには、楽器はフォークギターとオルガンがあるだけで、ピアノに接することもない環境でした。ちなみに家には世界文学全集と日本文学全集、世界史と日本史の全集、美術全集、百科事典もしっかり揃っていました。のちに東京に出てきて分かったのは、人の教養は学歴や役職・地位の高さと比例しないという事実です。

私が生まれ育ったのは日本有数の山岳地で、美しい自然のほかは何もないところでした。四季を彩る山また山で、小さな商店街も家から遠く離れており、進学塾や習い事の教室もありません。大学に入ったとき、どこの塾に通っていたかという話で同級生が盛り上がるのですが、私は塾通いの経験ゼロ。彼らが塾で熱心に受験勉強をした話を聞いて驚いたものです。

それほどの田舎ですから、コンサートホールなどあるはずもありません。ライブで音楽を聴くこと、特に大編成のオーケストラを生で聴く体験は夢のまた夢でした。私の音楽鑑賞は、レコードを聴くこと、FM放送のクラシック音楽番組をカセットテープに録音して聴くことに限られていたのです。

10代の一時期、音大に憧れ、楽理科もしくは作曲科を目指そうとしました。楽典の教科書のほか、ベートーヴェンの「交響曲第7番」とチャイコフスキーの「交響曲第5番」のミニスコアも手に入れて独学しました。しかし受験勉強の方法が分からないうえに、ピアノを習う機会も教室もありません。そこで音大進学は夢物語として諦めました。

「聴くこと専門の人」の10代について触れましたが、ここで改めて問います。音楽家とは誰か?ピアノを上手に弾く人のことでしょうか。指揮者や作曲家でしょうか。

音楽の芸術活動は3者揃って初めて成立

「楽典 理論と実習」(石桁真礼生ほか共著、音楽之友社)という黄色い本を数年前に新装版で買い直しました。さらに別の楽典の本も持っています。「楽典 音楽家を志す人のための」(菊池有恒著、音楽之友社)です。後者の第1章を開くと、まさに「音楽家とは誰か?」との問いを解くカギが書いてあるではないですか。

風景写真3 菊池氏によれば、音楽の活動には①作曲②演奏③鑑賞があります。私が注目するのは③です。鑑賞も立派な音楽活動なのです。音楽の芸術活動はこの3者によって成立すると同書は明記しています。そうなると、単なる音楽ファンの私、聴くことが専門の私も音楽家ということになるのです。

鑑賞家を無視した作曲家は作品を聴いてもらえません。仲間内で楽しんでいるだけの演奏家は鑑賞家を遠ざけます。音楽家の大多数は鑑賞家なのです。3万人の鑑賞家がアリーナに集うライブもあれば、30人の鑑賞家を前にしたリサイタルもあります。音楽はビッグビジネスにも同好会にもなります。

と、まあ、非音大卒の何でもない人による変な連載が始まってしまいました。音大で学ぶ幸運に恵まれた皆さん、これから音楽のありようについて考えていきましょう。

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター profile

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター 音楽ライター、音楽ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、日本経済新聞社入社。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、演奏家や作曲家へのインタビュー記事、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆した。現在はメディアビジネスのチーフメディアプロデューサー。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。ヤマハ音楽情報サイト「Web音遊人(みゅーじん)」にて「クラシック名曲 ポップにシン・発見」を連載中。
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次回の掲載は2023年12月20日ごろを予定しております! ぜひお楽しみに!

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