音大生にエール!
連載71

非音大卒いけてる原論④
音楽史とは何か?
膨大なポップスをどうする

音大生の皆さんは音楽史を学んでいることでしょう。ところで音楽史って何ですか。西洋のクラシック音楽が中心でしょうか。大概はグレゴリオ聖歌から始まり、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派と続きます。では人々に広く支持されているポピュラー音楽はどう扱うべきでしょうか。「そんなテーマは就活に役立たない」との声が聞こえますが、皆さんのパーパス(存在意義)にかかわる問題かもしれません。

これまで通りの史観なら終わり

西洋音楽史やクラシック音楽史についての入門書や解説書は山のようにありますが、音楽史は今、存亡の危機にあると思います。「非音大卒の素人が何を大げさな」と怒られそうですが、素人目には危機感がなさすぎるように見えます。このままでしたら、もう終わりです。実は誰もが気付いているはずですが、これまで通りの音楽史観では先が続きません。

クラシック 門馬直美著「西洋音楽史概説」(1976年、春秋社)を開きますと、最後の「第8章20世紀の音楽」で現代音楽について解説しています。半世紀も前の書物ですが、例えば、ドイツではシュトックハウゼンやヘンツェ、フランスではブーレーズ、イタリアではベリオ、米国ではケージを最先端の作曲家に位置付けています。日本については触れていませんが、挙げるとしたら諸井誠、武満徹、石井眞木、湯浅譲二らになったことでしょう。

ではその先はどうでしょうか。スペクトル楽派のジェラール・グリゼーやトリスタン・ミュライユ、「新しい複雑性」のブライアン・ファーニホウ、ミニマル・ミュージックのスティーブ・ライヒやフィリップ・グラス、エストニアのアルヴォ・ペルト、フィンランドのカイヤ・サーリアホ、イタリアのサルヴァトーレ・シャリーノ、日本では西村朗、金子仁美、近藤譲、池辺晋一郎、望月京、新実徳英、細川俊夫、藤倉大、山根明季子ら(敬称略。漏れている方、すみません。挙げきれません)。

西洋音楽の系統の作曲家がここまで世界中に広まったのは史上初の状況でしょう。20世紀末までは新ウィーン楽派のシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンが始めた無調や十二音技法による音列主義、その後のトータルセリエリズムといった線的な進化の流れが見えました。しかし今は調性音楽も復活し、「何とか楽派」に収まらない多様な現代音楽が日本を含め世界中に広がっています。それでも系統立てて歴史に組み込むことは可能と思われます。問題はそこではないのです。

芸術絵画と工芸デザインですか?

「ビートルズは世界中で支持されている」「ボブ・ディランは不滅」「最も尊敬する作曲家は坂本龍一さん」「ユーミン(松任谷由実)は日本の音楽シーンに欠かせない」。そんな声が普通に出てくるのが現代です。ロックバンドのクイーンを現代最高の音楽として信奉する人たちが数百万人はいると考えられます。

「所詮は大衆迎合のエンタメ。商業主義のポップスでしょ」――、そう侮ることは不可能です。音楽家として初めてノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランをどう捉えますか。まさか「詩は秀逸でも、音楽史に刻むべき対象ではない」とは言えないでしょう。世代を越えて世界中の人々に支持される音楽を歴史から排除することはできません。

「クラシックは芸術絵画、ポップスは工芸デザイン。一緒くたにするな」との主張もあります。工芸デザインだとしても、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」やデヴィッド・ボウイの「ジギー・スターダスト」といったロックの名盤は、モネやゴッホの絵画と同様に何千回でも鑑賞に耐える芸術性を持っています。「本物のクラシックを聴いてないからそう思うだけ」というのも違います。フィリップ・グラスは逆にデヴィッド・ボウイのベルリン3部作のアルバム「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」に触発されて「交響曲第1番」「同4番」「同12番」を作曲しました。

調性音楽だから進歩がないって?

19世紀以前、大した録音技術がなかった時代には、庶民が歌い踊ったポピュラー音楽は、楽譜に書き残すか口承されない限り、あるいは、時の権力者に気に入られない限り、歴史に残らなかったでしょう。流行歌はすぐに廃れて消滅するというわけです。ところが今は録音や録画の技術が発達し、楽譜がなくてもCDやライブ映像として作品が残ります。優れたジャズやロック、ラテンや歌謡曲は人々の記憶から消えず、世代を越えて聴かれます。それだけ人々に感動や興奮を与える音楽なのです。遠い昔から庶民の音楽の実力は侮れない水準だったに違いありません。

ポップスの演奏技術はどうでしょうか。超絶技巧を用いなくてもそれなりに完璧です。歌も演奏もうまいわけです。「正規の声楽の発声法になっていない」と言う人もいます。しかし米ロックバンド、トーキング・ヘッズのリーダー、デヴィッド・バーンは著書「音楽のはたらき」(野中モモ訳、イースト・プレス)の中で、チェット・ベイカーやジョアン・ジルベルトを例に挙げながら、録音された音楽が中心の現代では、マイクに向かって囁くような歌声のほうがむしろ聴き手には親密に感じられて好まれることを指摘しています。

ポップス 「でもポップスって個人の作品じゃないのでは? アレンジャーがいて、ほかのミュージシャンがいるわけでしょ?」。その通りです。では共同製作による作品は芸術性が低いのでしょうか。映画はどうでしょう。「それに調性音楽だし、進歩がない」。ならばドデカフォニー(十二音音楽)は今なおどれだけ進歩し続けていますか。

クラシックと呼ばれる音楽も当時はポップスだったりしたわけで、今のJポップの優れた作品がヨハン・シュトラウスのワルツと比べて遜色があるとも思えません。一時しのぎのウケ狙いだけの、商業主義100%のくだらない音楽だったら、半年後に忘れ去られているはずです。マイルス・デイヴィスやアントニオ・カルロス・ジョビンあたりはすでに「クラシック」として扱わないと納得しないファンが多いと思います。

求められる「コンテンツの等価学」

私はクラシック音楽と現代音楽が好きです。NHK-FMの番組「現代の音楽」を子供の頃から愛聴してきました。ウェーベルンとクセナキスは長年お気に入りの作曲家です。だからこそ、大多数の人々に圧倒的に支持される膨大なポップスを新しい音楽史に正当な評価で位置付けつつ、クラシック音楽と現代音楽の立ち位置を今後も確保したいのです。

クラシック音楽の教養はビジネスシーンに役立つと言われますが、私の経験では、ロックやジャズを好み、そうした音楽趣味を誇る企業経営者や各界リーダーのほうが多い感じです。ミシェル・フーコーの言う「生権力」が働いて新音楽史は形成されるでしょう。その過程で少数派の現代音楽が忘れられないよう、努力が必要です。ブーレーズをポップにするプロモーションが必要になる一方で、ロックやJポップを芸術として正当に分析・評価する「コンテンツの等価学」が求められます。「単純なコードをかき鳴らすだけ」といった偏見によってほとんどのロックのアルバムはまともに楽理分析もされたことがないのですから。

音楽家はいずれかの立ち位置で仕事をせざるを得ません。人気を集めるビジネスか、芸術至上主義のサークルか。人工知能(AI)も参戦する中、どのポジションの仕事を選んでも、安泰の地位や権威はないでしょう。異なるタイプがせめぎ合い、影響し合う中から音楽の新市場を開拓するほかありません。従来のクラシック音楽史にとらわれず、「工芸デザイン」も含めて芸術を広く柔軟に捉え、多様な価値観を受け入れることから始めませんか。

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター profile

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター 音楽ライター、音楽ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、日本経済新聞社入社。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、演奏家や作曲家へのインタビュー記事、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆した。現在はメディアビジネスのチーフメディアプロデューサー。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。ヤマハ音楽情報サイト「Web音遊人(みゅーじん)」にて「クラシック名曲 ポップにシン・発見」を連載中。
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次回の掲載は2024年2月5日ごろを予定しております! ぜひお楽しみに!

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