音大生にエール!
連載72

非音大卒いけてる原論⑤
音楽家にとって学歴とは何か?
実学も身に付けよう

音大生の皆さん、こんにちは。池上輝彦です。皆さんは晴れて卒業すれば音大卒や芸大卒、音大大学院の修士・博士課程修了といった「学歴」を履歴書に書くことができます。ところで音楽家にとって学歴とは何でしょうか。音大卒でなければ音楽に携わってはいけない、という法律はありません。音楽家として箔が付くかもしれませんが、ベートーヴェンが音大卒だったわけでもないのです。音大卒という学歴の意義について考えてみましょう。

音楽教育にも力を注いだ近代日本

音大や音楽院といった高等音楽教育機関の歴史を調べてみますと、世界最古を誇るのは、ローマ教皇シクストゥス5世が1585年に創設した音楽教習所を前身とするイタリア・ローマ市のサンタ・チェチーリア国立アカデミアです。フランスでは1669年にルイ14世によって王立音楽アカデミーが設立され、フランス革命中の1792年には市民向けの音楽学校と合併して現在のパリ国立高等音楽院へと続いています。日本でいえば戦国時代と江戸時代のことですから、いずれもなかなか古い伝統です。

東京藝術大学 音大生の皆さんには釈迦に説法ですが、日本では伊澤修二らによって1879年に設置された文部省所属の音楽取調掛が近代の高等音楽教育機関の始まりです。1887年にはこれが発展して東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)になりました。さらに私立では1907年に東洋音楽学校(現東京音楽大学)が創立されました。

前述のイタリアとフランスの古豪校は別格として、各国の有名校と比べますと、ウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)が1812年、ベルリン音楽学校(現ベルリン芸術大学)が1850年、ロシアのサンクトペテルブルク国立音楽院が1862年、米ジュリアード音楽院が1905年。日本は欧米列強と比べて遅れていません。西洋音楽史でいえば、国民楽派や後期ロマン派の時代には間に合っています。明治政府の近代日本は、欧米列強に伍していくために西洋式の音楽教育にも力を注いだということが分かります。

パリ国立高等音楽院出身者の顔ぶれ

音大や音楽院の音楽界への影響力は実に大きいと言わざるを得ません。特にフランスの場合、パリ国立高等音楽院の出身者がフランス音楽史を形成してきたと言っても過言ではありません。中退者も含め出身者の顔ぶれを見れば、ベルリオーズ、グノー、サン=サーンス、マスネ、ドビュッシー、サティ、ラヴェル、ミヨー、ヴァレーズ、メシアン、ブーレーズら、きりがありません。フランス革命後、一般市民の子弟に高等音楽教育の機会を提供してきたことが、世界に燦然と輝くフランス近現代音楽に結実したと言えるでしょう。

一方で、音大や音楽院に学んでいない大作曲家や演奏家もたくさんいます。モーツァルトやベートーヴェンの時代にはそもそも音楽の高等教育機関が多くなかったのですから、音大卒でないのは無理もありません。むしろ18世紀には音楽一家の子弟が親族や知人に教わったり教会で学んだりすることのほうがずっと普通だったのでしょう。

音大生の皆さんには周知の事実のような話が長くなってしまい恐縮です。音大は錚々たる人材を輩出してきましたし、音楽の専門家である音大卒は社会からとても高い評価を受け、期待されているはずです。私がインタビューした方々を振り返っても、極めて高い学力と教養を実感することが多かったです。

新しい音楽を切り開いた独学の人々

例えば、欧州の音大大学院修了の演奏家にインタビューした際、フランス語で書かれた学術論文を見せてもらったことがありますが、日本の超難関大卒でも到底太刀打ちできないハイレベルな専門性と教養、語学力だと思い知らされました。西洋音楽を学んでいる人が多いからでしょうか、とりわけ欧州系の外国語に長けた人が多い気がします。こうした音大卒の秀才が多数いるのですから、一般人が音楽について論じたり演奏したり作曲したり研究したりする余地など全くないと思えてくるほどです。

ミュージシャン しかし実際にはどうでしょうか。ミュージシャンと呼ばれるほとんどの有名アーティストは音大卒ではありません。ポピュラー音楽の分野では歌手、作曲家、編曲家、作詞家、シンガーソングライターでも音大卒は少数派であり、大卒でないアーティストも非常に多いです。学歴とは関係なく、彼らの作る音楽も演奏も著作も一流と言うほかないレベルの高さだったりします。

音大が影響力を持ってきたはずのクラシック音楽の分野でも非音大卒は少なくありません。例えば、無調と十二音技法を推進した現代音楽の開祖シェーンベルクは実科学校(レアルシューレ)を中退して10代で銀行に勤務した人で、音楽は独学です。ガーシュウィンやプーランク、日本では武満徹も独学組です。彼らは非常にユニークな才能の持ち主であるからこそ、独学で自らの新しい音楽世界を切り開くこともできたのでしょう。シェーンベルクともなると、ウェーベルン、ベルクという弟子まで持って、自身の独創的な作曲技法を教える側に回っています。

社会を生き抜くための実学

こうして見てきますと、音楽の世界では学歴による参入障壁は低いどころか無いと言わざるを得ません。どんな方面からでも音楽に携わろうという人たちが参加してきます。彼らの強みは学歴ではなく、根っからの音楽好きの性質にあり、趣味であろうとも幼少期から音楽を聴いて弾いて作ってきた長年の情熱的な経験にあります。これは見落とされがちな重要ポイントでして、例えば、大好きなクラシック音楽を幼い頃から毎日熱中して何時間も聴いたり弾いたりしてきた人を、後発者が追い抜くことは、人間に与えられている時間が平等である限り、音大で学んだとしても難しい場合があるかもしれません。

ではどうしたらよいのでしょうか。まずは当然ですが、せっかく音大に入学したのですから、音楽についての深い教養や高い演奏技術などの専門性を磨くことです。社会で一目置かれるにはそれが第一です。しかし高いレベルの教養や技術を身に付けた人たちが社会に多くいるかもしれません。そうなると個性的な専門性のほうが有利です。例えば、自分はマルティヌーの音楽が大好きで、作曲家の生涯や時代背景を知り尽くし、どんな作品にも詳しいし、多くの作品を演奏したり指揮したり論じたりできるといった個性です。

そしてもう一つ、趣味でいいですから「副学」の独学にも励むことです。音楽や美術、文学などの芸術とは程遠い分野のほうが効果的だと思います。それは社会を生き抜くための技術、実学です。具体的には経営学、会計学、金融論、マーケティング論、広告論、経営戦略論、人事労務管理論、データサイエンス、統計学、商法、著作権法などです。大学の経営学部、商学部、工学部、情報学部、法学部などでの専門科目に該当します。

音楽家兼ベンチャー起業家

こうした実学は専門の学部卒でなくても、就職してから個人的に学んで各種資格を取得する人がたくさんいる分野です。企業の幹部候補には必須の学問分野ですし、個人の努力次第で学歴に関係なく身に付きます。音楽家であっても、最近は経営やプロデュースの手腕、マーケティング力、営業力を求められる場面が増えていると思います。

生活の糧にするのでしたら音楽も結局のところはビジネスです。簿記やファイナンシャルプランナーなどの資格取得にゲーム感覚で挑むのでもいいですから、一つでも実学を身に着ければ有利だと思います。その場合、主従を取り違えないことです。あくまでも音楽が主です。それが音大卒ならではの強みの源泉ですから。人々が音大卒に求めるのは、エンターテイメントを含め広い意味での芸術です。芸術至上主義をビジネスに乗せることができたら最強でしょう。

非音大卒の単なる音楽ファンが理想論ばかりを書き連ねてしまった気もします。現実は甘くないよ、という声も聞こえてきそうです。でも音楽を志すのならば、理想を追求したほうが夢は広がります。音楽家兼ベンチャー起業家という音大卒の異才も登場する時代です。実学を敬遠せず、芸術家としてビジネスの可能性にも果敢に挑んでみませんか。

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター profile

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター 音楽ライター、音楽ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、日本経済新聞社入社。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、演奏家や作曲家へのインタビュー記事、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆した。現在はメディアビジネスのチーフメディアプロデューサー。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。ヤマハ音楽情報サイト「Web音遊人(みゅーじん)」にて「クラシック名曲 ポップにシン・発見」を連載中。
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次回の掲載は2024年2月20日ごろを予定しております! ぜひお楽しみに!

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