音大生にエール!
連載74

非音大卒いけてる原論⑦
音楽家にとって外国語とは何か
歌の楽しみを広げよう

英会話の習得 音大生の皆さん、こんにちは。突然ですが、英語は得意ですか。ご安心ください。私は海外駐在経験があるにもかかわらず英語が苦手です(安心材料にはなりませんね)。スイスの世界的な語学学校運営会社EFエデュケーション・ファーストによりますと、英語を母国語としない国・地域の2023年「英語能力指数」ランキングで日本は過去最低の87位。若い世代の英語力が中高年世代に比べて落ち込みました。ところで音楽家にとって外国語とは何ですか。英語がペラペラになればいいのでしょうか。

ヨーロッパ言語を最低2つ以上

かつて、新聞社の文化報道の部署でクラシック音楽の担当記者になるためには、「ヨーロッパ言語を最低2つ以上は理解することができなければならない」と先輩らに言われました。英仏、英独、英伊、仏独語かそれ以上が必須というわけです。そう言う先輩らは欧州駐在の経験がある人たちでした。随分高い語学力のハードルに思えますが、ポイントは「理解することができる」です。ペラペラ話せる必要はありません。読んで分かる、繰り返し聴けば分かる。要は作品を鑑賞するに足るフランス語やドイツ語の能力を身に付ければいいのです。

私もドイツに4年間駐在しましたが、ついにドイツ語がペラペラになることはありませんでした。さらにドイツの人々は英語が母国語ではないので、ドイツに暮らして英語がペラペラになることもないのです。言い訳に聞こえるかもしれませんが、4年間住んだくらいではネイティブのようにペラペラにはならない、これが現実です。加えて人見知りが強くて内気なタイプですと、初対面の相手とは日本語の会話でさえ冷や汗ものであるはずで、ましてや外国語がペラペラになることは夢のまた夢です。

そもそも「ペラペラ」とは何ですか。とっさの一言でリアクションができ、アメリカンな感じにフランクで饒舌ということでしょうか。「とにかく英語が大事」と今も昔も日本で必要性が叫ばれ続けている能力は「ビジネス英会話力」のようです。もちろんビジネス英会話をスムーズにこなせるに越したことはありません。でも英語の前に会話自体が苦手な人もいるでしょう。大多数の人々が仕事で英会話を日々弾ませる必要性に本当に迫られているのでしょうか。読み書きが得意なだけでも立派だと思いたいです。

歌を聴いて諸外国語に触れる

私見ですが、英会話の習得に乗り気になれない理由の一つは、文化・芸術の香りがあまりしない教材や教室が多いことです。実用性や実践力を重視しているから仕方がないとは思います。クラシック音楽ファンとしましては、英語で歌われる作品が少ないことも英会話のレッスンに興味がわかない理由の一つとなります。ヴェルディやプッチーニのオペラ、シューベルトやブラームス、フォーレ、ドビュッシーの歌曲を聴いていますと、「やっぱり英語じゃないな。イタリア語、ドイツ語、フランス語だよ」という感慨を持ちます。

音楽を通じた語学 「英語もなかなかいいなあ」と思う機会もあります。ロックを聴くときです。ビートルズ、デヴィッド・ボウイ、ボブ・ディラン、ニール・ヤング、ニューオーダー、コールドプレイ、ミューズなどを聴きますと、「やっぱりロックは英語が一番」と思えてきます。歌の発音、発声法がロックのノリにぴったりです。ジャズもなかなかいい。エラ・フィッツジェラルドやカーメン・マクレエのジャズ・ボーカルでも英語の音韻、リズムに感動します。

ジョアン・ジルベルトやアストラッド・ジルベルトのボサノバ、それにマドレデウスを聴くと、ポルトガル語のしっとりした美しさに魅せられます。エクトル・ラボーやウィリー・コロンのサルサではスペイン語の発声のカッコよさに聴き惚れます。そしてシャンソンやフレンチポップス。エディット・ピアフ、フランソワーズ・アルディ、エレーヌ・セガラの歌声には、さすがにフランス語の美を実感させるものがあります。

ジャンルを問わない音楽ファンは英仏独伊西葡など様々な外国語に日々触れています。歌を聴いているだけで自然に諸外国語を学んでいるのと同じになります。「でもペラペラじゃないでしょ。まともにコミュニケーションも取れないじゃないか。それでは仕事に使えないね」。その通りです。商談や取材といった狭義の仕事に直接には役立ちません。でも音楽を通じた語学からは、文化的生活というか趣味の世界が意外なほど広がります。

世界文学を音楽のように鑑賞

まず単に聴くだけでもフランス語やドイツ語の語感が分かってきて、親しみを持ちます。単純に「きれいな言葉だなあ」でいいのです。その場合、聴き手は言葉のシニフィエ(意味内容)ではなく、シニフィアン(表現・音声)に感動しているのです。それから意味も知りたくなるので、詩を調べます。対訳がなければ、簡単な文法書を読んで、辞書を使って自分なりに翻訳します。外国語の詩の自己流翻訳は楽しい趣味になります。まるで自分がその詩を書いている気分です。さらには自分で歌えるようになる曲も出てきます。

「英語は苦手」と最初に書きましたが、実は英語が大好きです。苦手なのはビジネス英会話であって、英語自体は愛してやみません。英米の書籍も日本語訳の本だけでなく、つい原書も買ってしまうので出費がかさみがちです。双方を照らし合わせて「英語ではこういう表現をしているのだな」と確認するのが楽しみです。

ドイツ語やフランス語も同様です。例えば、オーストリアの作家ペーター・ハントケの中編小説「左ききの女(Die linkshändige Frau)」。和訳本と原書の両方を愛読していましたので、ハントケが2019年にノーベル文学賞を受賞した際にはとても親しみを覚えました。

詩や小説など文学作品によってはCDやインターネットで朗読を聞けます。ビジネススキルとしての英会話のように一字一句をとっさに理解できなくても、世界文学を原語で音楽のように鑑賞するのです。海外旅行で現地の言葉を逐一分かる人は多くないはずですから、こうした朗読鑑賞の楽しみ方も有りだと思います。

歌曲にもっと親しむために

ビジネス英会話が苦手な語学趣味人が存在してもいいでしょう。狭義のビジネス以外のところで何らかの役に立つはずです。同調圧力で「ビジネスのための英会話スキル」ばかりを強いられるとつまらなくなります。そしてまさに語学趣味人として堂々と世を渡っていくのにふさわしいのが、音楽家を志す皆さんではないかと思っています。世界は英語だけで成り立ってはいません。とりわけ文化・芸術は多言語の世界です。きらりと光るフランス語やドイツ語の教養を生かせる場面もあるはずです。

音楽を通じた語学 日本におけるクラシック音楽の受容の中で、最難関と思われるのが歌曲です。日本の若年層の英語力が落ち込んでいることを知って思ったのは、確かに最近は洋楽よりもJポップを聴く人が多いということです。英語のポップスも聴かれない風潮では、ドイツ語やイタリア語、フランス語の歌曲はもっと受け入れられない気がします。日本ではピアノやバイオリンなどの演奏会やオーケストラのコンサートに始まり、オペラ公演の鑑賞も徐々に浸透してきました。現在まで普及していないのが外国語の歌曲のリサイタルです。

歌曲のレパートリーが豊富なのには驚きます。例えば、ブラームスの全作品の総演奏時間に占める歌曲の比率は約30%に達します。歌曲王シューベルトはもとより、シューマン、マーラー、リヒャルト・シュトラウスらは数多くの歌曲を作曲しました。大作曲家たちが大切にした歌曲が、言葉の意味の壁を理由に聴かれないのはもったいないです。外国語の歌曲をもっと気軽に聴けるようになれば、音楽鑑賞の幅が広がります。そうなれば日本語の歌の美しさも再発見されるはずです。詩の紹介や歌詞の対訳本の普及も求められます。声楽科やピアノ科をはじめ音大生の皆さん、健闘を祈ります。

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター profile

池上 輝彦(いけがみ てるひこ)音楽ライター 音楽ライター、音楽ジャーナリスト。早稲田大学卒業後、日本経済新聞社入社。証券部・産業部記者を経て欧州総局フランクフルト支局長、文化部編集委員、映像報道部シニア・エディターを歴任。音楽レビュー、演奏家や作曲家へのインタビュー記事、映像付き音楽連載記事「ビジュアル音楽堂」などを執筆した。現在はメディアビジネスのチーフメディアプロデューサー。クラシック音楽専門誌での批評、CDライナーノーツ、公演プログラムノートの執筆も手掛ける。ヤマハ音楽情報サイト「Web音遊人(みゅーじん)」にて「クラシック名曲 ポップにシン・発見」を連載中。
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次回の掲載は2024年3月20日ごろを予定しております! ぜひお楽しみに!

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